粟津温泉について

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あわづ温泉とは…

「ナントりっぱな平城京」。そう、歴史で習った710年です。その奈良時代に粟津温泉は開湯しました。既に1300歳を数えます。決して歴史が深いからいいというつもりはありません。ただこれだけ長くつづくにはやはり理由があるのです。温泉の泉質は、純度100%の芒硝泉。霊峰白山に端を発する湯は効能にすぐれ、全国各地から湯治客が訪れています。温泉文化の奥深さも粟津のいいところです。宿のおもてなしは厚く、街の情緒は豊か。祭りも盛んです。今日では恋人の聖地という新しい呼び名も加わりました。確かにこの温泉には、1300年愛されつづけるわけがあるのです。

万病息災、美容促進、
粟津のお湯の秘密とは?

奈良時代の高僧・泰澄大師によって導かれた粟津温泉。白山大権現の霊夢伝説が生まれたのも、粟津のお湯があたかも霊験あらたかな効能を呼ぶからでしょう。粟津温泉の泉質は、無色透明・純度100%の芒硝泉。口に含むとほのかな塩の香りと酸味を感じます。霊峰白山に端を発し、悠久のときを経て滔々と湧出するお湯は、天然の有効成分をたっぷりと含みきめ細やかな肌ざわり。全身で湯のコクを味わえば、漂う湯の香は吸引作用によって体の内部から吸収されます。純度100%の新鮮なお湯ですから飲用にも最適です。

粟津温泉のお宿は、
全て自家堀り温泉です!

芒硝泉は温泉の中でも血管拡張作用に優れ、穏やかに血行を促すため、血液循環が原因の慢性病である神経痛、高血圧症、動脈硬化症筋肉痛、痔疾などに効果を発揮します。また新陳代謝を促進し、全身の細胞を活性化してくれますので、肌を若返らせ、高い美容効果が期待できます。同じ芒硝泉でも特に粟津のお湯は泉質が濃く、古来、きりきずややけど、解毒作用に働く名湯として有名です。

新鮮なお湯だからできること。

温泉にも鮮度が大切です。湧きあがったお湯は新鮮なほど吸収作用も高く、全身への効果を発揮します。粟津温泉のお宿は、全てが自家掘りの源泉を持っています。お宿によって泉質と泉温が微妙に違うのも、純天然ならではのこと。お宿ごとのお湯くらべをお楽しみになるお客様もいらっしゃいます。こんこんと湧きいずるあたたかなお湯に身体を浸し、風流を愛でながら、落ち着いた湯浴みを心ゆくまでお楽しみいただく。それが粟津スタイルです。

あわづの歴史

霊夢に描かれた
北陸最古の温泉…

粟津温泉は奈良時代が幕を開けて間もない養老2年(718年)、泰澄大師によって開湯されました。泰澄大師は文武天皇の勅使として鎮護国家の法師となった高僧。霊峰白山で修行を重ねるなか「粟津なる村に霊泉湧出す。汝、ここにゆきて之を掘り、末代衆生の病患を救うべし」という白山大権現の霊夢に逢い、お告げどおりに掘ったところ温泉が湧出しました。以来、千三百年、絶ゆることなく湧きつづける粟津のお湯。湯治宿が立ちならび、はるか昔の村人も武将も文人も、ここで日暮らしの垢を流し、体と心を癒してきました。

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泰澄大師と開湯
その一

白山開山を伝える泰澄大師は越前国に生まれ、後に「越の大徳」と呼ばれた名僧。その泰澄が養老元年三十六歳のとき、霊夢の導きにより行者二人を連れ、白山に登りました。頂上に着き、みどりが池のそばで祈りを込めたところ、池の中から九頭竜が現れ、なおも念ずると龍は消え、十一面観音が現れました。

その二

白山での修行も一年を経た養老二年、七月下旬のある夜、泰澄大師の夢枕に白山大権現が立たれて「粟津という村に温泉涌出す。汝、往きて之を堀り、末代衆生の病患を救うべし」と、申されました。大師は神のお告げに喜び、下山して粟津村へと向かいました。

その三

粟津村に着くと、大師を募って村の老若男女が集まり、たちまち人だかり。大師は右手に錫杖を握って左手に数珠を持ち、深く目を閉じて歩くことしばし。つと立ち止まり、ここを掘れと仰せられました。村人がこぞって掘り起こせば、じわじわと湯がにじみ、ついには湧きあふれる湯、また湯。村人は大いに驚き歓喜して大師を生神とあがめました。

その四

大師は滞在を願う村民に対して、聖観世音と薬師如来の像を与え、弟子の雅亮を還俗させて、湯の管理に当たらしめました。後にここに湯治宿を建て、病を癒す霊泉と天下に知られ、今日の粟津温泉にいたります。

人あつまり、
温泉文化をはぐぐむ…

粟津の湯をことのほか愛したのは加賀百万石の名君・前田利常公。古刹那谷寺へ参拝の折に植えたと伝えられる黄門杉は、いまなお粟津温泉のシンボルとして温泉街を見守っています。江戸時代には北前船による日本海交易が盛んになり、全国から湯治客が訪れるようになりました。近代に入って鉄道が始まると、粟津温泉へは『温泉軌道』が敷かれ、いっそう多くの人で賑い始めます。花鳥風月を愛で、お湯を慈しみ、食楽を堪能し、器の妙、おもてなしの情趣を味わう温泉文化が、湯人によってゆたかに育られていきました。

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前田利常と粟津温泉
その一

加賀藩の三代藩主前田利常は若干13歳で家督を継ぎ、加賀藩を盤石にする数々の功績を残しました。寛永十七年、小松城に隠居。47歳での早すぎる隠居は、その優秀さゆえの幕府の嫌疑によるものともいわれています。利常を語るとき、百万石を安泰にするために凡庸を装ったという「鼻毛の殿様」の逸話が挙げられますが、実際には行政・文化面で数多くの業績を残した名君でした。

その二

隠居した利常は、美術工芸の名人・名工を数多く小松に招き、城の増築、寺や神社を造営しました。また小松絹・九谷焼・瓦・茶・畳表等を保護奨励し、文化と産業の両面で小松の原点をかたちづくりました。粟津では泰澄大師から授けられた聖観世音菩薩、薬師如来を祀る大王寺が天正年間に朝倉氏に焼かれましたが、利常の命により見事に復興しました。大王寺は粟津温泉の守護寺として、今も地元の人たちを守っています。

その三

粟津からほど近い那谷寺も境内の荒廃を嘆いた利常が、寛永十七年、名工・山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせ再興しました。書院は最も早く完成し、利常自らがここに住み指揮したといわれています。書院から見える庭園は、茶道遠州流の祖である武将・小堀遠州の指導を受け、加賀藩の作庭奉行に造らせました。これらは現在、国指定重要文化財および国指定名勝となっています。

その四

その利常が那谷寺を訪れた折、粟津に立ち寄りお手植えされたのが、温泉街の中心、法師旅館の前の道路中央に立っている黄門杉です。利常は、当時の江戸上屋敷の門が黄色であったため、黄門様と呼ばれていました。樹齢約四百年たった今では20度近い傾斜になり、日本初の樹医山野さんにも診ていただきました。小松、粟津の発展の恩人といえる前田利常公もその昔、粟津のきめ細やかな湯で日頃の疲れを癒されたことでしょう。

変わりゆくもの、
変わらざるもの…

詩人的小説家として知られ、『田舎教師』などの名作を残した文豪・田山花袋は、全国の温泉を歩いた『温泉めぐり』のなかで『・・・粟津温泉は一番静かで居心地がよかった』と書いています。程よい華やかさと、円熟した落ち着きの両面を持つ粟津温泉は、暮らしにさりげなく上質を求める人々に愛され続けてきました。昭和から平成へ、ますます設備が充実し、温泉の楽しみも多様化してまいります。そしていつの時代にも共通するのは、心ゆくまでリラックスしていただける癒しの温泉であること。時が流れ人が変わろうとも、粟津の湯と温泉情緒はいつも滔滔とあふれ、絶えることを知りません。

語り継がれる
おっしょべ恋物語り…

いまの女性より、むかしの女性のほうが恋に大胆だったのでしょうか。粟津温泉には400年も前から伝わる恋物語があります。物語の主役は当時宿屋に奉公していた下女のお末。「おっしょべ」は「お末」がなまったものです。お末はひそかに向かいの宿屋の下男・竹松に恋をしていました。ある夜、お末は恋心をおさえきれず、宿の松の木をよじ登って屋根づたいに竹松の部屋へ向かったのです。ところが途中で足をすべらせ軒下へ落ちて、宿屋は大騒ぎに。これがきっかけでお末の想いは竹松に伝わり、めでたくふたりは結ばれました。以後、何千組もの男女がこの温泉で恋を成就させてきたのです。

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おっしょべ恋物語
その一

毎年8月の終わりに粟津温泉の開湯を祝って行われるおっしょべ祭り。この「おっしょべ」とは宿に奉公していた下女「お末」の名が訛ったもの。今から四百年ほど昔の少女、お末。粟津民謡「おっしょべ節」として歌われ、また、踊られているお末の恋物語のお話です。

その二

むかしむかし、今から四百年ばかり前のことです。粟津温泉の宿屋に「お末」と申す下女が奉公しておりました。年の頃は十六、七。瞳は黒く、頬はリンゴのように赤い愛くるしい顔立ちでありました。ある日のこと、お末は、向かいの宿屋に奉公している下男の竹松を見初めました。竹松は浅黒くりりしい面構え、いつも黙々と働いています。

その三

ある雨の降る宵、お末は切ない想いを胸に抱いて窓にもたれていると、竹松の横顔が夜空にぼうと浮かぶのです。彼女はたまらなくなって下へおりてゆきました。竹松のいる宿屋の玄関脇に大きな松の木があります。お末はその松の木によじ登り、竹松の部屋をめざして屋根の上を猫のようにはってゆきました。ところが木羽板を踏み外し、あっという間に軒下の草むらへ滑り落ちました。

その四

物音に驚いた人びとが集まってきてぼんぼりで照らしてみると、お末が倒れているのです。翌日、お末の冒険が粟津の湯の町中に広がりました。ことの次第を悟った竹松は、お末をカゴにのせて二里ほど離れた生まれ故郷まで連れてゆきました。あくる年、めでたく結婚した二人は奉公していた宿の人びとに挨拶にまわり、那谷寺の観音様へお参りしました。